夏野の驚異の部屋

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”画鬼”と呼ばれた幕末・明治の天才画家 ”河鍋暁斎”

どうも皆さんこんにちは。

美術関連はそこそこ話を書きやすくて助かってます!

篠虫です。

 

 

今回は、ベクシンスキバンクシーと続いて、

激動の時代を駆け抜けた1人の日本人画家のお話です。

 

 

 

 

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 時は江戸時代末期。

黒船来航を中心にする外国からの圧力とそれに呼応するように奮起し始めた尊皇攘夷運動の板挟み、正に「内憂外患」動乱の幕末から明治を生きた画家を紹介します。

 

 

 

 

河鍋暁斎 (1831―89年)

かわなべきょうさい

 

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肖像写真 明治22年(1889)以前に撮影された物 

 

 

実は私が一番好きな日本の画家です。

 

 

なのでいつも以上にしっかりと書いていこうと思います!(笑)

 

 

 

生涯

生まれは1831年5月18日、下総国古河石町、現在の茨城県古河市のあたりです。

物心つく頃に父が河鍋性に改姓したようです。

 

幼い頃からなかなかの性格で、暁斎自身も「玩具や菓子を与えても泣き止まないが、絵を見せたり手で持てる生き物を与えられるとすぐにおとなしくなった。虫や花が一番好きな遊び相手だった。」と語っています。

この当時から絵や生き物への関心が強かったことがよくわかります。

 

 

その後一家で江戸に移り、天保8年(1837)に浮世絵師の歌川国芳に弟子入り。

師の「人が組み、投げ・投げられる様子を注意深く観察しろ」という教えを守り、日中長屋を歩き回っては喧嘩を探していたと言います。

 

また有名な伝説として、天保10年(1839)5月のある日、梅雨の増水時に神田川の岸で見つけた人の生首を持ち帰り、写生したことで周囲の人々は大変驚いたと言います。

 

 

 

天保11年(1840)に父親が国芳の素行を問題視したため、今度は江戸の絵画流派の一大集団、狩野派絵師の前村洞和に弟子入りしました。

洞和は、早くから暁斎の画才を見抜き愛し、彼を”画鬼”と称しました。

 

しかしその翌年には洞和が病に倒れたため、彼の師である駿河台狩野家当主の洞白に預けられ絵を習いました。

 

 

 

ここで狩野派について簡単な解説をしましょう!

 

狩野派とは室町幕府の御用絵師として活躍した、狩野正信を祖とした約400年にわたって画壇の中心にあった日本の歴史上最も成功し影響を及ぼした画家集団のことです。

 

江戸時代にも幕府の御用絵師(専属の画家)として活動を続けていました。

最盛期は安土桃山時代、時の権力者であった織田信長豊臣秀吉徳川家康の時代に流行した豪華絢爛な城郭建築や寺社仏閣の内装に重宝されました。

 

有名な人物だと、その最盛期に活躍し、大阪城の障壁画などを担当した狩野永徳やその孫で二条城や江戸城の障壁画制作を指揮した狩野探幽などがいます。

 

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狩野永徳『唐獅子図』 宮内庁三の丸尚蔵館

 

 

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狩野探幽『四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)』 名古屋城障壁画(上洛殿三之間)


狩野派では過去の名画や大量の写し絵(粉本)をお手本として、ひたすら模写を繰り返して絵画技法を上達させると共にいわば「狩野派の画風」を教えるやり方が江戸時代の間ず~~~~っと行なわれていました。

 

確かに効率の良い学び方でしたが、その結果過去の上手い絵の劣化コピーにしか届かない描き方ばかりになって、オリジナリティと自由性の欠落が激しく、徐々に衰退していきました。

 

 

そんな狩野派にいた暁斎でしたが、ここでもいくつも伝説を残しています。

中でも有名なのが「鯉のお話」です。

 

あるとき画塾仲間と一緒に川で釣り上げた大きな鯉を急いで生け捕りのまま持ち帰り、各部位を忠実に写生、鱗の数まで数えました。

しかし写生が終わると仲間達は鯉を殺して食べようと言い出しました。

すると暁斎が「あらゆる部位を写生させてもらったこの鯉はすでに私の師であるも同然だ。礼をして天寿を全うさせてやらねば」といいました。

仲間達はこれを聞き入れず、調理を始めようとしたそのとき、鯉が勢いよく飛び上がり、結局暁斎の意見が押し通り鯉は池に放たれました。

 

後年、暁斎は「自分に行為を描く技術があるとするならば、それはあのときの事件のおかげだ」と話しています。

 

 

狩野派の修行は一般に入門から卒業まで11,2年はかかるところ、暁斎は9年で卒業していることからとても優秀だったことがわかる。

 

 

嘉永3年(1850)には館林藩の絵師・坪山洞山の養子になるものの、2年後、珍しい帯をしていた女中を写生するため追いかけていることが、女性を求めていると誤解され坪山家を離縁されてしまいます。

 

金銭的に厳しい時代が到来しますが、暁斎大和絵の土佐派、琳派、京都画壇の四条派、浮世絵など日本古来の流派を広く学んでいました。

 

数年後安政2年(1855)に起きた安静江戸地震の折り、仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵によって本格的に世の中に出るようになります。

 

錦絵、浮世絵で戯画・風刺画を描き徐々に人気を獲得していきます。

 

 

明治3年(1870)10月6日には書画会(文化人が集まりお互いに絵や書を即興で書くもの)で新政府の役人を批判する戯画を描いたことが問題となって、逮捕されたこともあります。(翌年釈放)

 

独立してからこの間、何度も画号が変わりますが、明治4年(1871)以後には号を「暁斎」と改めます。

 

また幕末頃から絵日記を書かさず書いており、その日のありとあらゆる事柄について記載されていて、現存しているのは20年中の4年分しかないが文化的にも資料的にも大変貴重な品となっている。

 

 

明治期にはすっかり人気も定着していました。

親交のあった仮名垣魯文の作品『安愚楽鍋』や『西洋道中膝栗毛』などに挿絵を描いたり、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会の日本エリア用の絵を描いて送ったりしていました。

明治9年(1876)にはフランスの実業家で絵画コレクターとしても有名なエミール・ギメらの訪問も受けています。

このとき決めが連れてきた画家フェリックス・レガメと互いに肖像画を描いて競いあいもしました。

 

新富座のためにわずか4時間で描かれた『妖怪引幕』や第2回内国勧業博覧会に出品した『枯木寒鴉図(こぼくかんあず)』は「妙技二等賞牌」を受賞しました。

 

このとき、『枯木寒鴉図』に暁斎自ら100円(現在の約200万円くらい?)という破格の値段をつけると、周囲からは「鴉1羽にしては高すぎる」と非難されました。すると暁斎は「これは鴉1羽の値段ではなくこの絵を描くために培ってきた長年の絵画修行の価値である」と言ったそうです。

これに感銘を受けた榮太郎本舗の店主・細田安兵衛は本当に100円で絵を購入し暁斎の面目は保たれました。

その結果、この鴉は「百円鴉」と呼ばれ暁斎の名声を高め狩野派の正当画家として周知されるようになります。

 

 

同年、新政府のお雇外国人の建築家ジョサイア・コンドル暁斎に入門します。

2人はかなり親しかったようで、コンドルは”イギリスの暁斎”を意味する「暁英」の号を暁斎から与えられるほどでした。

 

 

暁斎日本画復興の第一人者、岡倉天心フェノロサ東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)の教授を依頼されるが、それを果たす前に胃がんを患いコンドルに手を取られながら明治22年(1889)に57才で死去します。

 

暁斎は死後の3日前、病で苦しみながらも絵筆を手に取り、枕後ろにあった障子にやせ衰えた自分の姿ともうすぐ自らが入るであろう角形の桶を書いたと言われています。

 

 

 

画風

 

暁斎は多数の流派の画法を学び自らの糧としていたため、かなり幅の広い作風で知られています。

錦絵・浮世絵でも、当時の民衆から役者絵、合戦絵を描き、おそらく『北斎漫画』に影響されたユーモアたっぷりの本も残しています。

戯画や風刺画にも優れ、鋭い切り口と滑稽さが持ち味でした。

 

当然肉筆画は大得意で、速筆として知られていました。

先に挙げた、新富座の『妖怪引幕』は幅17m高さ4mという大画面であるにもかかわらず、たったの4時間で書き上げたというのですから驚きです。(作品は後ほど)

 

モチーフ蛙や鯉、花鳥などの自然如来や菩薩などの仏画と多種多様です。

 

肉筆画全体を通して言えば、墨の使い方と筆裁きの熟練さが素晴らしいです。

衣服は輪郭線の強く濃く粗い墨と筆圧で、人の身体は部位によって細かく調節し筆の強弱と墨の濃度で、「墨の色」が何十色もあるほどに使いこなしています

 

また、幼い頃から持っていた自然と絵に対する興味が綿密な写生に繋がり、それが圧倒的な画力・筆力の土台として支えています。

 

 

 

 

では、ここまでべた褒めしてきた暁斎の作品をいよいよ見ていきましょう!

 

 

 

 

作品

 

 

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『妖怪引幕』(全体) 明治13年(1880) 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵

上述の4時間で書き上げた作品。

当時の歌舞伎役者が妖怪とした描かれているという面白い作品。

 

 

 

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拡大図 正面のろくろ首は”九代目”市川団十郎がモデル



 

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『花鳥図』 明治14年(1881)頃 東京国立博物館


第1回内国勧業博覧会に出品された作品。

鮮やかな花々とキジに巻き付くヘビ、それを狙うタカが印象的な絵です。

 

 

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鍾馗ニ鬼図』



2つで1つの掛軸作品。

鍾馗とは中国の道教系の神様で、日本では病除けや学業成就の御利益があるとされています。また鍾馗の掛軸は魔除けの効果があるとされていて、暁斎の絵にも多数登場します。

必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿で、今作では虎に乗り、鬼を打ち払う姿が描かれています。

 

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『閻魔と地獄太夫』 制作年不詳 プライスコレクション

閻魔は「閻魔大王」で知られる冥界の王のこと。

地獄太夫室町時代に実在したとされる遊女で、大変美しかったとされている。

両者とも画題としても好まれていて、暁斎も多数の作品を残している。

 

 

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『文昌星之図』 明治20年(1887)頃 河鍋暁斎記念美術館

文昌星とは北斗七星の傍らに見える6つの星のことだが、科挙受験(古代中国の国家試験)の守り神とされた北斗七星の第一星「魁星」と混同され、文学・文章の神様として崇拝されるようになった物。

本作では筆と硯をもつ赤鬼のような姿で表されている。

 

 

 

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『龍虎図屏風』 明治12年(1879)以後 板橋区立美術館

金地に墨で描かれた龍と虎。

このモチーフは古くから描かれてきた伝統的な画題だが、狩野派で絵を習った暁斎らしい筆のタッチが迫力があり格好いい。

 

 

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『岩上の鷲図』 明治9年(1876) 個人蔵

 

 

 

 

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『竹虎之図』 明治21年(1888) 河鍋暁斎記念美術館

 

 

 

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河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』パリス劇場表掛りの場 明治12年(1879) 河鍋暁斎記念美術館

 

 

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『蒙古賊船退治之図』 文久3年(1863) 錦絵 河鍋暁斎記念美術館

 

 

 

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地獄太夫』 19世紀後半(明治時代) ボストン美術館蔵 

地獄太夫一休宗純の絵。

地獄太夫を見た一休は「聞きしより見て美しき地獄かな」と詠むと、太夫は「生き来る人の落ちざらめやも」と返したそう。(解釈はWikiへ)

ここでの一休は骸骨の頭の上で陽気に踊っている。

 

 

 

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『風神・雷神』 19世紀後半(明治時代) ボストン美術館

(画像のサイズ差がありますが、実物は同寸です)

 

風神雷神図』と言えば俵屋宗達以来の琳派の屏風絵が有名ですが、暁斎琳派というより狩野派をベースとした北斎由来の独自のリアリティで描いている。

琳派絵では、風神は、雷神は白だが暁斎絵では風神を、雷神は伝統的なにしている。

また風神の周りには紅葉が舞っているという暁斎の機知による表現がされている。

 

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『名鏡倭魂 新版』 大判錦絵3枚続 明治7年(1874) 河鍋暁斎記念美術館

鎌倉時代の蒙古襲来からインスピレーションを得ているとも言われている。

明治になり次々と流入してくる外国の人・物・情報などを妖怪に置き換え、日本の名工によって作られた鏡の光で撃退するという風刺的作品。

 

 

 

 

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暁斎楽画 第九号 地獄太夫』 大判錦絵 明治7年(1874) 河鍋暁斎記念美術館

 

 

 

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『大和美人図屏風』 明治7-18年 コンドルコレクション

 

暁斎に弟子入りした建築家ジョサイア・コンドルが、一人前になったとして暁斎から送られた絵。

着物の柄や奥の屏風絵まで非常に緻密な画面が構成されている。

力強い筆致が注目されがちな暁斎だが、こうした美人画もまた得意なジャンルだった。

 

 

 

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『釈迦如来図』 明治9年(1876) ギメ美術館蔵

エミール・ギメが暁斎に描いてもらったとされる絵。

釈迦がモチーフだが、相手がキリスト教の国出身と言うことで、キリスト風の釈迦を描いたと言われている。

確かに表現や彫りの深い顔つき、髪の毛は西洋人の物に見える。

 

 

 

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『地獄極楽めぐり図 第34図極楽行きの汽車』 明治2-5年 静嘉堂文庫美術館

 この絵は依頼人の娘が早くに亡くなってしまったことを受けて作られた物と言われおり、悲しさを感じさせない、明るく華やかで軽快なタッチで描かれている。

この図には当時の最先端である蒸気機関車が登場しているが、暁斎は汽車を見たことがなかったようで、進行方向が左であるのに対し煙突がある側を右に描いている。

 

 

 

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鳥獣戯画 猫又と狸』画稿 紙本墨画着色 制作年不詳 57.5×61cm 河鍋暁斎記念美術館

 

 鳥獣戯画と言えば、平安・鎌倉期頃に描かれたとされる墨絵巻物が有名だが、暁斎も人間味溢れる動物を多く描いている。

 

 本作では猫又(長寿の猫が妖怪化したもの)と狸、狐、土竜(もぐら)が愉快に踊っているところ。

画像は画質が粗く申し訳ないが、猫又と狸のすかした笑顔にはこれでもかというくらいの人間性が含まれている。

 

 

 

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『山姥と金太郎図』 明治17年(1884)頃 東京国立博物館

金太郎伝説を題材にした絵。

金太郎は山姥に育てられたとする話がモチーフとなっているが、山姥の姿は一般に思い浮かべる恐ろしい老婆の姿ではなく、母親らしい顔立ちと年齢である。右手にはたくさんの植物(食材?)をいれたカゴを下げている。

 

対して抱かれている金太郎は幼い頃から怪力だったとされ、木の棒に掴まる白い小熊を引っ張っている。反対側の山姥の足下からは袖をかき分け、猿がのぞき込んでいる。

 

着物の輪郭線と動物の体毛のかき分けが暁斎の力量を物語っている。

 

 

 

 

 

 

kyosai-museum.jp

 

 

河鍋暁斎 - Wikipedia

 

ジョサイア・コンドル - Wikipedia

 

 

 

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さて、いかがだったでしょうか?

 

河鍋暁斎は幕末・明治という激動の時代を我流で生き抜いた人としても格好いい画家だと思います。

 

上に載せた河鍋暁斎記念美術館暁斎の子孫が運営している美術館で、その収蔵作品数は日本一です。

埼玉県にあるので、お近くの方はぜひ!

 

また当時から現代まで一貫して海外での評価は高かった一方、日本国内では没後に歴史に埋もれてしまった画家で、再び注目され始めたのは近年になってからでした。

 

これを機に暁斎好きが増えてくれれば良いなと思います!

相変わらず文章量が多くてすみません(;´Д`)

 

 

それではまた!

(。・_・)ノ

 

 

 

 

 

参考文献

美術手帖 2015年 07月号

美術手帖 2015年 07月号

 

 

 

河鍋暁斎 (岩波文庫)

河鍋暁斎 (岩波文庫)

 

 

 

 

別冊太陽 河鍋暁斎

別冊太陽 河鍋暁斎